クリアにとって、世界には初めて体験する出来事で溢れている。
ぼんやりと考え事をしながらほつれたコートを修繕しているが、これも今日が初めてだ。
やり方は隣に座るタエがあれこれと厳しく、けれど丁寧に教えてくれるから特にもたつくこともなく作業は終わった。
蒼葉が『平凡』でバイトをしている間、クリアは家に残ってタエの家事を手伝っている。
料理、はもともと得意だ。掃除も、洗濯もそれなりに出来る。
蒼葉もタエも良く褒めてくれるから、率先して行った。
だから別に、対価なんていらないのにとクリアは常々二人に言っているのだ。
この家に置いてもらっているだけで、蒼葉の傍にいられるだけで、クリアにとっては幸福なことなのに。
脱いだコートを揺らせば、ちゃりちゃりと音が鳴る。
家事の手伝いをするたびに、タエが少しずつクリアに渡した硬貨の音だ。
受け取れないと何度クリアが言っても、タエは良く回る舌で言いくるめてクリアの手にそれを納めてしまう。
『孫の手伝いに駄賃をやってるだけさ』だなんて言われたら、受け取らないわけにはいかない。
タエにそんな風に思ってもらえたのが嬉しかったし、行動の対価に対して賃金を貰うという初めての体験にクリアの心は躍った。
だんだんと重くなっていくコートのポケットを時々叩いて確認する。
それをどうやって使うかなんて、クリアはこれっぽっちも考えてはいなかった。
嬉しかったから、大事にとっておいて、硬貨は溜まっていくばかり。

 だから、ポケットが重みに耐え切れずほつれてしまうのも仕方が無いことだろう。
バイトに出かける蒼葉を見送って、家の前を掃除している時に、ついにポケットの縫い目がほつれて中身が毀れだしてしまった。
乾いたアスファルトの上に、金属の雨が降る。
クリアは暫く呆然としていたが、けたたましい音に気づいたタエが表へ飛び出してきた。
そうして散らばる硬貨を二人で見、笑った。

『いつの間にかこんなに溜まってしまいました』

腰を折って、一つ一つ拾い上げる。

『こんだけあると重くて仕方ないだろうに。あとで紙幣に換えてやるさね』

塵も積もれば山となる。
クリアの手の中にあるそれらは、駄賃にしてはそれなりの額に達していた。

『僕、特に欲しいものもないですし……溜まる一方で』

困ったように笑うクリアに、タエはやれやれと首を振った。

『欲の無い子だねぇ』
『欲が無い……というか、もう十分満たされていますから』

クリアにとっての幸せは、蒼葉が幸せでいること。
蒼葉と共にいられる以上の幸せなんて、きっとない。
隣にいられるだけ機械で出来た体が軋むくらいの幸せで、心の中が満たされている。
こんな風に誰かを思うことは、クリアにとっては初めての事だった。
だから今は、これ以上を望むだなんて厚かましく感じて気が引ける。
無意識の内に、クリアの唇が蒼葉の名前をなぞる。
あおばさん。
名前を呼んだだけなのに、それだけで愛しさが伝わる。
無邪気な子供か、でなければ天使のように慈愛に満ちた笑顔を見て、タエは息を呑んだ。

『……じゃぁ、いい事教えてやろうかね』

幸せのお裾分けを貰った代わりに、とタエがクリアに耳打ちをした。
他に誰が聞くわけでもないのに、内緒話のようにひそやかに囁かれた言葉に集中する。

『一月後の今日はね、蒼葉の……』



++++++


 朝起きて、ねぼすけの蒼葉のベッドからこっそり抜け出して音を立てずに階段を降りる。
それでも大抵タエはクリアよりも早くに居間にいて、朝刊を眺めていた。
おはようございます、と挨拶をする。
しわがれているけれど、よく芯の通った声で挨拶が返ってくるのを合図にクリアは台所に立って朝食を作り始める。
夜のうちにタイマーをセットした炊飯器を開け、炊き立ての米をかき混ぜてからもう一度閉める。
米を蒸らしているあいだに小鍋で湯を沸かし、葱と豆腐を切って味噌汁を作った。
ほんの一滴だけ油を垂らしたフライパンは温度に注意して。
蒼葉は半熟の目玉焼きが好きだから、ベーコンと一緒に手早く火を通す。
もう随分と長い間使っているフライパンだから、ベーコンから出る油だけでは焦げ付く。
だからサラダ油を少しだけ垂らすのがポイントだ。
ぱちりぱちりと油が弾ける音と、香ばしい匂い。
いつも通りの、朝の風景だ。
それに釣られたようにようやく蒼葉が二階から降りてくると、『いつまで寝てるんだい!』とタエの罵声が飛ぶ。
まだ半分くらい夢の中に居る蒼葉は、妙に間延びした声で謝った。
あふ、と蒼葉が小さな欠伸が一つ零す。
べっこうあめみたいに透明で、蕩けた金色の瞳に薄い涙の膜が張った。
クリアはなんでもない、ごく普通の仕草一つを、目に焼き付けるようにして蒼葉を眺めている。
ふふ、と小さく笑うクリアを見て、蒼葉は不思議そうに首をかしげている。

「どした、今日すんげぇご機嫌じゃん」

顔を隠す必要が無くなってからもつけていたガスマスクを、今日は外している。
そういう時は大抵、クリアは花が綻んだように笑っている。幸せそうに。
蝶が寄ってきても不思議が無いほどのうつくしい笑顔に、蒼葉も釣られて頬を緩めた。

「ええ、とっても!」

朝食の良い匂いよりも何よりも、目の覚めるような容貌がさらに輝くのを見て、蒼葉はぱちぱちと目をしばたいた。
異国の神話に宝石のように美しい目を持つ怪物が、見たものを石にしてしまうという逸話があるが、それに等しく蒼葉も彫像のように体を硬くした。

「蒼葉さん」

先ほどまで眠たそうに目を擦っていた蒼葉の指先を捕まえて、クリアはしっかと自分の手で握りこんだ。
寝起きの蒼葉よりも、クリアの手のひらの方が随分と熱い。
手袋越しの熱に、蒼葉はハッとして腰を引いた。
一歩後退すれば、同じ分だけクリアが距離をつめてくる。
花のかんばせが、吐息が掛かるほどに近くて蒼葉は顔を赤らめた。
同じ空間にタエもいるのにと言葉にならない呟きが口の中に溜まったまま、まごついている。
それでも蒼葉はクリアから目を離すことが出来なくて、唇を震わせて呻いた。
思考の定まらない蒼葉とは反対に、クリアは手負いの小動物のようでかわいいな、と能天気なことを考えている。
かわいいな、すきだ、とてもすき。
蒼葉さん、ともう一度同じように名前を呼んで。
もうこれ以上はない、というくらい極上の笑みで。
真っ赤に染まった耳元で、歌うように囁いた。

「ハッピーバースデー、僕の蒼葉さん」

ごくごく有り触れたお祝いの言葉。
ごくごく有り触れた、恋人への甘いキス。
けれどどれも、クリアにとっては初めての体験だった。
かけがえの無い、愛する人の生まれてきた日を、こんなに特別だと思ったことは無い。
なんて尊いんだろう、なんて幸せなことだろう。
 クリアは目を白黒させて狼狽する蒼葉の手を引いて、出来たばかりの朝食を並べたテーブルへと誘導した。
いつも通りの朝食の風景に、一つだけ馴染みの無いものが並んでいる。
蒼葉の座る定位置に、硝子の一輪挿しに飾られた青い薔薇が鎮座していた。
ベルベットのような質感の花は肉厚で、たった一輪だけなのにひどく豪奢な印象を受ける。
見覚えのある、蒼い、色。

「僕が咲かせたんです。青い薔薇は自然にないけど、培養したんですけどね」
「これ……俺に?」

蒼葉の言葉にクリアは頷く。

「だって今日は、蒼葉さんのお誕生日でしょう。喜んでくれるか、分かりませんけど」

クリアは言って、蒼葉の髪に指を絡ませた。
徐々に薄れてきたとはいえ、まだ神経の通った髪を不意に触られて蒼葉は肩を揺らす。

「蒼葉さんの髪の色、とっても、綺麗だから。同じ色を出したかったんです。タエさんの知人の研究者さんにちょっと知識をお借りしまして……あ、研究費用は僕が出しました!」

品種改良がされる中、薔薇の花弁に青い色を映すのは困難とされてきた。
中々鮮明な青にならず、研究がなされ始めたころの青い薔薇の花言葉は『不可能』。
有り得るはずもない奇跡の代名詞だった。
それが近年、ようやく美しい青が花に宿るようになった。
不可能とまで言われたのに奇跡はおきて、神の祝福だとも言われる。

「一度は壊れてしまった機械の僕が、もう一度貴方の傍にいられるなんてまるで奇跡のようです」

握った手に力をこめて、祈るように。

「この先も、毎年、ずーっと、貴方のお誕生日をお祝いさせてくださいね」

ほんの少しだけ癖の残る蒼葉の髪に鳥が啄ばむようなキスをして、クリアは泣くみたいに笑った。

「あいしてます、蒼葉さん」

初めて誰かのために口にする、たどたどしいハッピーバースデーをあなたに!